2016年07月12日

栄光の70’s(80)

梅雨は明けていなかった・・・。今日も曇り空で、朝からムシムシでいやになってくる。
僕たちは日々の生活に追われているが、巷の子供たちはもうすぐやってくる夏休みに胸おどらされているんだろうな。まもなくスタンプカードをぶらさげた子供たちと朝すれちがう季節がやってくる。

さて、先週の続き。あの頃松江市内に「大劇横丁」とよばれた一角があり、飲み屋さん・パチ屋・ポルノ専門の映画館などが密集していた。特にパチ屋は「サンヨー」「ニューナショナル」「ばらホール」「名人荘」、はずれたところに「ナショナル会館」と、小さめのホールが隣同士で営業していた。それプラス先週話していたジャンキュウ屋さん(本当はスマートボール屋さん)ともう一軒アレンジボール屋さん(店の名前わすれた)があったと記憶している。

たまに行くジャンキュウで楽しんでいたのだが、いつだったか話していた浪人時代の友達の中に「山ちゃん」というやつがいて、彼こそ僕が最初に出会ったセミプロ級のパチンカーであった。もちろん同学年の同い年であるが、「サンヨー」主にネグラとし、すでにホール内でもいっぱしのパチプロのオーラをはなっていた。彼の日課は9時に下宿屋を出発、予備校にはいかずホール前に並ぶ。そして10時の開店と同時に狙いを定めたパチ台の釘をチェックする・・・・とまあこんな具合で、午前中に一台打ち止めさせてから、午後の予備校にちょこっと顔をだすといったものだった。
彼の得意としていたのは「アレンジボール」というやつで、雀球みたいなものだった。しかし、彼の勝ち方はチョコレート・たばこ専門のセコイ僕とは違い、打ち止めまで持っていき、3,000円〜4,000円也の現金収入となるものであった。「え〜たったそれだけ?」と思うかもしれないが、今から40年も前の話である。しかももとでは100円から200円程度(つぎこんでも1,000円まで)なので、いいバイトになっていたのだ。

ある日、その一角からちょっと離れたところにあった「カタクラ」(ボーリング場・ビリヤード・レストランなどもいっしょになっていた)が新装開店する情報が入ってきた。当時の新装開店は今どきの2〜3台新台入れて釘も開けずにやるようなもとは違い、ホールのほとんどのパチ台が新しいものになり、釘もパカッと開き僕たちを迎えてくれたのだ。特にカタクラはよく出すという情報で、山ちゃんと僕は夕方開店(5時だったか6時だったか・・・?)をめざしてならぶことにした。それもなんと昼からである。まあ勉強もせず、こんなことばっかりやっていたんだから、失敗するはずだよね。
その甲斐あって、3日間通い続け、連日打ち止めまでもって行った(特に初日は打ち止め一番乗りだった)。
もちろん山ちゃんも連日連勝でめでたしめでたしと相成った。

実はこの時生まれて初めてパチンコで打ち止めまでもっていけたのです。
山ちゃんのおかげ!

(さらにつづく)
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