対馬は国の最前線
地勢的宿命でもありますが、対馬という島の側面の一つは国の最前線ということ。白村江の戦いの頃から、元と高麗の連合軍による全島の蹂躙と大量の島民拉致、秀吉の朝鮮出兵後の守り、日清日露戦争など。島のあちこちにある砦や砲台などの遺構は、その時代時代に国の運命を背負っていたことを物語っています。とりわけ大規模な突貫工事で日本海海戦に備えた写真の万関瀬戸は、海峡の守りに大きな役割を果たしました。それでも泊まった宿の主人は、どこかの属国にならないよう国の守りをしっかりやってほしいと言っていました。対馬は一方で、朝鮮通信使による我が国との交流にも大きな貢献をしています。
万関瀬戸
軍艦が通ることのできる島の中部を東から西に抜けることのできる万関瀬戸は、天然の良港浅茅湾を船が東西に航行できることになり、軍事上大きな意味を持つことになりました。日露戦争時に対馬海峡に軍艦や水雷艇を出撃させるため開削されました。万関橋の上に立ってみると足がすくみそうで、岩を削っての開削工事は突貫作業でさぞかし大工事だっただろうと想像できます。
この万関瀬戸と島の至る所に作られた砲台は、対馬海峡全体を射程内に納めて制海権を確保していました。日露戦争以後はこの海域が戦場になることはありませんでした。
(写真3枚目まで)万関瀬戸
(写真4枚目以降)異国の見える丘展望台